1999年京都工芸繊維大学に出博士号学位を取得後、韓国に帰国する前後に、日本建築学会などの住宅地研究分野にて知り合った神戸女子大学の砂本先生との共同研究がきっかけであるといえよう。砂本先生は2004年頃から韓国の都市・建築研究に着手し私の発表された先行研究を参照しており、研究対象領域の近接より学会等にて討議を重ねる機会を多く得て、その後は他の研究者も含めた日韓両国のメンバーによる共同フィールド調査なども実施してきた約20年間の研究交流がある。このたび新たな国際共同研究プロジェクトを立ち上げるにあたり声をかけてくれた。その際に占領期に接収された都市・住宅に関する日韓国際比較研究という共同課題を誕生させたのである。
短いともいえる59日間の滞在期間中の滞在計画は三つあり、1.土木と海の都市ともいわれる兵庫の都市コンテクスト体験 2.兵庫の近代建築巡り 3.民間と行政が協力し作り上げていくまち再生であった。とくに空き家問題や少子化による人口減少、高齢化社会を官民共同で解決しようとするごころ試みは単にみるだけではなく、関係者とのコミュニケーションをとりたいと思って、兵庫で建築事務所をやっている後輩にお願いし、現場を訪ねることができた。地域の特性を生かして改修した近代建築物が見たい、神戸の郊外住宅地がみたい、最近神戸ではやっているという半人前大工の作品であるバイソンがみたいなどなどを生かし10月5日体験できた。まず小池小池加工所訪問<小池加工所>はJR兵庫駅から国道2号線を南に越えたあたりにある兵庫運河。第二次世界大戦後、この運河は輸入した原木の貯木場として活用されて、その当時、木材を生業とする町工場がたくさんあったそそうだ。運河に隣接する材木町と呼ばれる地域では製材所が軒を並べていたとされていますが、今も営業を続けている製材所は1件を残すのみで、あとはすべて廃業した。小池小池加工所は木材に関わってきた町工場のひとつであった。木材の町としての盛衰を見てきた町工場を、木工で生きていきたいと思う次世代のために使えないだろうか工場と町の間に新しい関係が生まれれば、この地域が紡いできた、木材の町という物語を後世に伝えることもできるはず若い木工作家や学生たちを巻き込むことで、小さな町工場を地域に開く活動拠点とする目的として再生されたのである。この工場の設計者であるウズラボ体表の竹内正明さんを訪ね話を聞いて近隣の施設などを見学した。兵庫にはKの加工所をはじめ地域の40代~50代の人立ちがそれぞれ、建築、食、ガーデニング、木材、運河、運河の畑、育てて楽しんで食べて楽しむ会、廃墟にはった街をいかに地域の住民が生かしていくかなどの問いをたて、実践していくプロセスを学ぶ機会であった。運河のハウス園芸部の活動、オープンファームは畑作業、都市農園、街づくり活動の単なる領域を超えた複合的な市民活動であったので、驚きの領域であり、必ず韓国でも実現したいと思い、この体験を契機として交流を始めたいとおもった。その交流の始まりとして11月2日から3日に東遊園地行われた神戸グルメディスカバリーに参加するつもりであったがあいにくの雨と帰国ということで参加できなかったごとはいまだに大変残念であったとと思っている。
滞在を準備する際に短い時間を効果的に利用し成果を得ようとしていた。<占領期に接収された都市・住宅に関する日韓国際比較>が研究目的であったため、まず日本と韓国のそれぞれの状況を知り合うための勉強会や研究会、講演を開こうと思っていたので、滞在初期から学生あての講義、ゼミ参加を通して両国の住文化に勉強することができたのはとても意味深い成果であろう。短い間で慌てて準備したので不真面目に思えたかも知らない、決していいとは言えない私の日本語授業に集中して聞いてくれて、質問してくれた学生さんに感謝する。次になにより日本建築史会を通じて講演会開催を案内でき、募集し遠くは北海道から聞きに来てくださった方との素敵な研究会ができたことはとても光栄でありながら、やりがいもあり、これからも期待できる成果であろう。私の発表は「戦後韓国における敵産家屋の処分 ~ソウル延喜荘住宅地の行方~」であった。発表内容は1933年12月創立の延喜荘土地株式会社(ソウル、社長:飛島文吉)によって1934年から開発が始まった延喜荘住宅地21万坪は1937年から分譲を始めたが、戦地中の資金統制、資材不足などの事情により、3期にわたる分譲事業は計画通りに至らず戦争がおわる。その後、敵産財産となった延喜荘住宅地の一部土地や住宅は(米)軍政庁敵産管財庁、大韓民国中央管財庁の管理下になる。1949年12月19日帰属財産処理法が制定されてからは帰属財産と処理されるなか土地は、区画整理地区へ編入され営団住宅や社宅が建設されるなど様々な方法で払い下げられる。1933年会社創立から開発分譲、敵産家屋処理、帰属財産処理までおよそ50年にわたった延喜荘住宅地の行方をおって明らかにすることであった。この発表によって集まってきた研究者とは意見交流ができ、これからもさらなる研究課題が芽ばいたという賛辞を頂きました。これは我々研究者にとっては何よりの成果であろうと思う。